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2023年度卒業式 学長式辞

学位記を授与された1,510名の皆さん、卒業おめでとうございます。キャンパスの桜の蕾が開き始めたこの春の日に対面での卒業式を迎え、皆さんを送り出すことができることに私はいま特別の思いでいます。

思い起こせば4年前の卒業式はコロナ禍のために対面での開催は叶わず、誰もいない椅子だけのこの広い会場に向かって私は学長式辞を読み上げ、それをライブ配信しました。また皆さんを迎えるはずの2020年度の入学式は中止となり、1学期の授業はすべてオンラインで行うことになりました。入学はしてもキャンパスに立ち入ることができなかった皆さんも苦しかったと思いますが、私にとっても苦しい日々でした。当時の誰もいない異様に静まり返ったキャンパスの様子を、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』の中で描いた「春が来ても鳥の鳴き声が聞こえない沈黙した世界」のようだと例えたことがあります。

このような辛い経験を経て今本学を旅立たれる皆さんに対して、私は「卒業後も皆さんの持ち味の共感力に一層の磨きをかけて前向きに生きていってください」という言葉を贈りたいと思います。

本日「共感力」をテーマにお話ししたいと思うようになったきっかけは、国分寺市国際協会の会長を務められている小田登志子先生からの次のような嬉しい報告でした。

「岡本先生、学生を地域のさまざまな場所やイベントに連れて行って分かったことは、東経大の学生は、お年寄り、体の不自由な人、外国人、子供たちなど弱者に対してとてもやさしいということでした。彼ら、彼女らが持っている思いやり、心根のやさしさは教室では気が付かなかったのですが、いまそのことを実感しています。そのため、本学の学生はどこに行っても大歓迎され、大変高い評価を得ています。」

私はこの話を聞いて、学長としてとても誇らしい気持ちになりました。というのは、私自身大学教師としての、研究者としての長年の経験から、私たちの時代が抱える最も大きな課題は繁栄する経済と思いやりのある社会をいかに両立させるかにあると考えてきたからです。そして、その両立の鍵となるのが共感力だと考えてきたからです。

それでは皆さんは、「共感力」とは何だと思われますか。また、なぜ現在において「共感力」が大切なのでしょうか。さらに、この「共感力」を磨くにはどうすればいいと思われますか。

経済学の父アダム・スミスは最初の著作である『道徳感情論』の冒頭で、「人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがある」と述べ、それを「共感(sympathy)」と呼んでいます。

アジア初のノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは、『道徳感情論』は250年を経てなお失っていない今日的意義があり、長らくこの注目すべき著作がなおざりにされたことは社会に不幸な影響をもたらしたと述べています。スミスが「人間の大半を支配するのは自己の利益だ」と考えていたと前提することは、経済学において一つの根強い伝統となっているが、スミスは『道徳感情論』で表明した見方を一度も放棄したことはないとアマルティア・センは強調します。スミスは公教育や金融の規制をはじめとした多様な制度構造の支持者であり、理論としても現実の到達目標としても、利益追求動機を超える社会価値の信奉者だった、というのがセンの結論です。

このようなセンのスミス解釈は、昨年9月30日に本学で開催された「アダム・スミス生誕300周年講演会」をきっかけに私が愛読してきたジェーシー・ノーマンの『アダム・スミス共感の経済学』が提示するスミス像とほぼ同じであり、私自身このような観点からアダム・スミスを本格的に読み直したく思っているところです。

人間社会における共感の役割を訴えているのはアダム・スミスやアマルティア・センをはじめとした経済学者・倫理学者だけではありません。「失敗の本質」の研究で有名な経営学者野中郁次郎一橋大名誉教授も著書『共感経営』の中で、多くの企業の事例研究をあげながら、かつての日本人がイノベーションの原動力とした共感する力を取り戻し、共感経営を実践すべきだと説いています。その分かりやすい例として松下幸之助の「水道哲学」とセブンイレブンの創始者鈴木敏文氏をあげ、次のように述べています。

松下幸之助の水道の水のように安い価格で提供できる電気製品をつくるという未来像は、幼少期に赤貧に喘いだ幸之助が、それが実現できれば、人々の人生に幸福をもたらし、「この世に極楽浄土を建設することができる」という共感にもとづく未来構想力によるものでした。セブンイレブンの鈴木氏は、衰退する小型店の立場に立ち、「小型店でも大型店との共存共栄が可能であることを証明する」という未来像から、日本初の本格的コンビニエンスストアチェーンをつくり上げました。そして、成長の踊り場に差し掛かると、少子高齢化で増加する高齢者世帯や就業する女性たちへの共感から、「ミールソリューションを提供する」というコンビニの新しいモデルを構想しました。

人と人との共感に根ざした同一力は、合法力にも、報償力にも、強制力にも勝る、それゆえ共感を重んじ、本来は人の営みである経営戦略に人間を取り戻せという野中郁次郎氏の主張はまことに時宜にかなっており、分析過多、計画過多、コンプライアンス過多の「三大疾病」に陥って活力を失ってきた日本企業にとって有効な方針となりうると思っています。

そのほか、ゴリラの生態研究で著名な元京都大学総長の山極寿一氏や霊長類の社会的知能研究の第一人者であるフランス・ドゥ・ヴァ―ル氏なども、それぞれの専門的研究と照らし合わせながら、社会はいま共感力を必要としていると述べています。

山極氏は、近年の情報革命の進展の中で、現代社会が共感ではなく、優劣のルールに頼るサル的な社会になりつつあることを危惧し、共感力ではなく互いの優劣に基づいてトラブルを解決する社会は効率的ではあるものの格差が大きく、利益を優先する社会になると警鐘を鳴らしています。今一度人類の歴史を振り返り、家族と共同体の重要性を再認識し、共感力を用いた仲間づくりを心がけるべきだと主張しています。

ドゥ・ヴァ―ルは『共感の時代へ』という著書の中で、共感こそが私たちの時代の最大のテーマであり、人間の共感には、長い進化の歴史という裏付けがあると述べます。利己的な諸原理に基づく社会を正当化するために私たちの生物学的特質がしばしば担ぎ出されるが、その同じ特質がさまざまな共同体をまとめる接着剤を生み出してきたことも、けっして忘れてはならないと主張しています。

私は3年前に学長ゼミで学生諸君と一緒に、進化生物学者ディヴィッド・ウィルソンの『社会はどう進化すのか』を読み議論したことを思い出しています。ウィルソンの著書は、従来根強かったダーウィン理論の誤用と歪曲を正し、競争よりも協調に力点を置いたダーウィンに光を当て、「私たち人類の未来を意識的に進化させるために、進化論の世界観を肯定的に活用する方法」を探求しようとするものでした。「人間の共感には、長い進化の歴史という裏付けがある」というドゥ・ヴァ―ルの主張はウィルソンの主張と同様であり、私はこの二人の世界観に全面的に賛成いたします。

それでは皆さん、私たち人間が潜在的に秘めている共感力を顕在化させ、それに磨きをかけるにはどうすればいいでしょうか。私は、最近の朝日新聞土曜版の「フロントランナー」にて「石積みの技を未来に伝える」石積み学校の代表理事として紹介されていた真田純子さんの生き方が参考になると思っています。

私が現在東京工業大学で景観工学を教えている真田さんに注目したのは、昨年秋に真田さんの著書『風景をつくるごはん』を読み感銘を受けたのがきっかけでした。著書の中で、徳島でビニールハウスや耕作放棄地が景観を損ねているのを見て、風景を守るために耕作放棄地を減らしたいと考え、食生活を改め、県内産で、なるべく過疎地の産品、加工品は伝統的手法のものなど産地を守る自分のルールを決めたと書いているところが印象的でした。

その真田さんは石積みとの出会いを次のように述べています。石積みに出会ったのは、景観工学を学び、大学教員の職を得て移り住んだ徳島県。段々畑の美しさに圧倒された。畑に行くだけでも大変な斜面、過疎や高齢化で耕作放棄も進む。このままでは、地域で伝わってきた石積みや修復の技が失われてしまう。このような思いから真田さんは2013年に「石積み学校」を設立します。そして全国から修復の依頼があればそこに出向き、その現場が学校になります。

農村での体験、そしてそこで暮らす人々への共感が、真田さんの研究や活動の幅を広げていったことがよくわかります。皆さんもぜひこの真田さんの共感力と共感に触発された行動力を見習ってください。

最後になりましたが、もう一つ、これから社会に出て働く皆さんにぜひ伝えたいことがあります。与えられた仕事を好きになり、仕事を楽しむ努力をしてください。そうなれば、職場の人たちとも仲良くなれ、皆さんの共感力は一層高まり、人生は充実したものとなります。

カール・ヒルティは古典的名著『幸福論』の中で素晴らしい言葉を遺しています。その言葉を皆さんに贈ることによって卒業式の学長式辞を締め括りたいと思います。

「未来は働く人のものであり、社会の主人はいかなる時代にも常に勤労である。」

2024年3月23日 東京経済大学学長 岡本英男